【好き嫌いの話】”自分の言葉にする”ということ

創作

ピクニック(花見)をしに行った

本日3/23。嫁と前々から、川端かわたの公園にて花見をしようと話をしていたが、叶った。

早咲きだったサトザクラ。

暖かくなり始めた日差しを避けて、桜の花々の影に入り、新品のレジャーシートを広げた。

白いシートの上に花びらが落ちてきて、ふわりと可愛らしい。

レジャーシート越しに、冷たい土の感触がひんやりと伝わる。頬を地につけて、さらに冷たさを味わってみた。気持ちがいい。同じ目線で一輪だけ咲く、オオイヌノフグリが素敵だった。

寝転んで空を見上げれば、桜が青空一面に咲いて、微風にゆれていた。絶景だな、と思った。

ヒヨドリ(ムクドリかと最初思った(笑))が花を啄んで鳴いていた。あと、巣から出てきた蟻が草枝を乗り越えながら歩いている。

見ているだけで暖かい。と思ったら、ヒヨドリが桜の喰いすぎで桜色になったクソを投下してきた。ぺしょっ…………新品のレジャーシートが死んだ!この鳥でなし!!許せん。ヒヨドリどうしで喧嘩も始めた。桜の花びらが散っていき、バサバサと羽ばたく音も聞こえる。よそでやれ。

その後はペンペン草が生えていたから、懐かしくなってそれを摘んで、嫁と眺めていた。嫁は子供の頃、ペンペン草をよく振り回して遊んでいたという。かわいいね。

ヒヨドリが去って、メジロの群れが代わりに訪れた。非常にかわいらしい。メジロ好き。大人しいし。

触れた桜の木肌は意外とガサガサしてる。でも、痛くない程度のものであるので、手で包み込む様に掴むと、その凹凸が心地よかった。その後、嫁に手を洗えと怒られた。

やっぱ想像と本物じゃ解像度・出力が桁違い(文章の話)

上記は五感で得た経験をリアルタイムでメモに書き起こしたものだった。(ヒヨドリ以外は原文まま)人によって程度は違うかもだけど、自分は本物を知らないと文章に表した時の解像度がガクッと落ちるタイプだと思う。

レジャーシート越しのあの土の冷たさは、絶対に想像だけでは感じ取れないものだった。ヒヨドリが桜を食うことも、桜の木肌も、透き通るようなそよ風も、知ることはなかったかも。

────経験に関する所感については以下記事にて思うことを書いた。

『経験』というのは、人体器官を介し外部から得たシグナルを、脳が処理して保存したもの

と記事にて定義していた。

人の経験の感じ方というのは多種多様で、たとえば他の創作物や実際の事件から知識を得て想像し、二次的な経験を得ることもできる。

しかし同時に思うところもある。それら全てを肯定する気にはなれない、というのが自分の本音の部分だったりする。

結局のところ、好みや個人の問題ではあるかもだが実際に五感で本物に触れるのと、情報を取捨選択され表現されているのとでは、確実に後者の経験に内包される要素が少ないできれば全部五感で触れたいものだと、無理であることは承知で思う。

でも、自分で気づけなかったことを後者は教えてくれたりする。一概に優劣は語れないね。

想像するにも根拠が欲しい(自分の言葉にするということ)

さらにこれは好みの話でしかないのだけれど。

想像で書けてこそ、というのは確かにそうだが、そういった意見を目にするたびに、

その想像には経験的な根拠があるのか?多数決的な”属性パズル”を愉しんでいやしないか?

と思う。そこで想像の根拠と経緯について語りえるならばいい。すごいな〜ってなる。そうじゃないなら趣味合わねーな、と思う。(属性パズルという言葉については、なんとなくニュアンスで察してもらえると助かる。あんまりいい言葉じゃないのは自覚あるから。)

例えば、ヌードデッサンをする時、人体解剖学的な知識もなしにモデルに背を向けて描くのと変わらないと感じる。個人の人体という”風土”を無視した、人体的と言われる要素を並べていくだけで構造を無視した(いわゆる属性パズル的な)デッサンやイラストを見たとき、本当にこれでいいの??って言いたくなるのをいつだって我慢してる。それは文章でも変わらない。文章からモチーフに対する誠意みたいなのを感じられないとき、いつもモヤっとする。自作でもそう。

「琴線に触れる」を「逆鱗に触れる」と同意にしてしまった事件は、属性パズル的なものの代表格だと思う。ゆるさん。(思想が強過ぎる)

本物に触れるに越したことはない。もしできないなら、資料など活用して多角的かつ地道に経験を得ることが有効だろう、と考えている。そうすることでしか、”自分の言葉”には落とし込めないと信じているのでじゃなきゃ表現でなく、ただの文字になる。キュビズムだって、成立ちを理解しないままマネしても汚くなるだけだ。

無論、趣味ではないしつまらないなと思いはするけど、アカデミック的な手法や属性パズル化を否定するわけじゃない。これから何かを始めたい人たちに一番やさしく、心が広く、また、戦う土俵が明確化しやすいのはそれらだと思うし、ネガティブワードは生産性皆無だと思うし。だから黙ってきたわけで……。(しかしブログはこういう陰湿な本音をこっそり書くためにやっている

なんとなく、普段の自分のこだわりの一端について、アウトプットを兼ねてまとめてみた。同時にインプットにもなるし。

最後に、祖母に俳句を習っていた時のことを想い出しながら作った句を並べておく。俳句って絵で言うところのスケッチみたいで好きなんだ~。

①里桜 空を仰げば 蒼に咲く

②春荒で 熱りをさます 川端にて

③あたたかな ひかりの中で 遊ぶ子ら

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