Xでの話題
『作家は経験したことしか書けないのか、そうじゃないのか』
上記、定期的に創作界隈で交わされる論議のテーマ。とっかかりはいいくせに結論なんて出ることもなく毎回霧中に消えていくという、取扱注意ともいうべき議題かと思う。
俺自身はこのテーマに今までノータッチだった、というよりかは、これほどまでに繊細な議題をX上で論ずることは無理だなと諦めていた。だるいもん。
ただ、最近ブログとかいう陰湿最強飛び道具を手にしたので、こうして自分の中で結論付けていることをようやく発表できるなという心持でいる。最終的に全ヘイトを一心に受けて爆死する可能性もある。
この議題に対する自分の結論についてこれから簡単に書くけど、こういう視点もあるのかと楽しんでいただけると嬉しい。
『経験』の定義について ~前置き~
この議題がカオス化してる要因は、『経験』の定義感が他者と共有されないまま、違う尺度を持った状態で語られていることにあると思ってる。タイパ重視のSNS環境では、経験というワードに対する脊髄反射で持論を語る人もきっと少なくないし、議論の主軸となる『経験』が共通の認識で定義化されてないバラバラな状態である以上、それについて語ること自体がナンセンスであるように思えて仕方がない。全員が同じ方向を向かないプロジェクトは燃えて風に消えちゃうもんだし。
だから一度、ここで『経験』の定義を共有したい。
あと、個人的に『経験を表現すること』がごっちゃになって語られる現状に違和感しかないので、そこを切り離して定義する目的もある。
『経験』の定義について ~定義の共有~
まず結論からいうと俺は
『経験』というのは、人体器官を介し外部から得たシグナルを、脳が処理して保存したもの
と定義している。この記事では一貫してこの定義で『経験』を用いる。
あたりまえ体操を踊りたい人はこのタイミングで激しく踊っておいてね。俺も踊る。しかし「ただの記憶やんけaho!」とか考えた人はあたりまえ体操の列からいったん抜けてね。しばく。
この『脳が処理して保存したもの』というのがかなり『経験』というものをややこしくする要素だなと感じており。というのも、記憶から失われたが精神的な影響を与えている『経験』もあるし、逆に『経験』が先入観となりシグナル自体を脳が入れ込み処理する場合もある。この先入観は我々物書きが”叙述トリック”として慣れ親しんでいるものでもある。
『経験』を記憶として一概に言い換えられない理由がここにある。
定義を基にした結論
上記定義『『経験』というのは、人体器官を介し外部から得たシグナルを、脳が処理して保存したもの』に照らし合わせれば結論は
『作家は経験したことしか書けない』
でいいと思う。
この定義下であれば知覚する物事全てを『経験』として取り扱えることとなる。これなら単純明快な事実に基づく結論にしかならんと思います。
もしこういう意図で言い出しっぺが『しかかけない』とか言ってたとしたらかわいそうでおもろい。
『経験を表現すること』とは
上記結論であれば、『経験したことしか書けない』ことと『経験を表現すること』が別軸の議題になる。このあたりがごちゃごちゃで語られている雰囲気があって、ずっとモヤってた。
『経験したことしか書けない』は上記定義に則れば事実以外の何物にもなれない言葉であるはず。
対し『経験を表現すること』は創作技術的な議題だ。ここを交えて議論しても創作スタンスの発表会にしかならないから「経験(体験)してなくてもかけてるよ」「いや、経験(知識習得)してないと伝わらんかもよ」「経験(先入観)で書けなくなる」みたいな妙に皆々のいうことが嚙み合わんキモさが産まれる。
補足として、『経験を表現すること』が如何に創作技術的なのか、以下、分かりやすい例を拙作を交えて話してみる。今回例に挙げるのはこの掌編。『セーダ・パサール』
不幸の三徴候。
簡単に言うならそれは、膝の靭帯とか骨とか、そういうのが全部トンじゃう、全てを狂わせる大怪我。
──16の頃だった。とある名門サッカーチームの下部組織からトップチームに引き抜かれる直前の、最後のテストマッチ。後半ロスタイムに、軸足の膝を思い切りスライディングで削られた。
そしたらブチブチって変な音がして……その瞬間にわかった。
終わった、って。
すぐに搬送され手術を受けて、翌日に目を覚ました時。
メロンかってくらいに腫れ上がった俺の膝を見て、泣き叫んだ日の恐怖と絶望は、今だって鮮明に思い出せる。
筆者の俺はこんな大けがしたことない。ただ、サッカーが好きだったので、この大けがの原因や原理、その後のキャリアに与える影響までを事細かに想像できた。”宮市亮”や”ロベルト・バッジョ”といった選手のエピソードを追体験する『経験』を表現に乗せている。
あと表現するにあたり、嘘を交えている個所もある。膝靭帯は切れるとき『ブチブチ』って音を立てない。『ギリ……ギリ……!』と引き延ばされるような音と感触が実際にはあるらしい。読者の先入観に訴えるのであれば『ブチブチ』だな、と『経験』の取捨選択を行い表現していた。絵に例えると、背景の白い紙に白い石膏像を描くとき、アウトラインを視覚情報通りに白く描写すると立体にならないから、回り込みをグレーのグラデーションで囲う技術と似てる。嘘がそれっぽくなれる状況もあるということ。『経験することで書けなくなる』というのは、上記嘘のような創作的バランス感覚が強烈なリアルの『経験』で先入観化して損なわれるからだと考えている。
また、『メロンかってくらいに腫れ上がった』ってのも適当だ。バッジョの経験談を見た『経験』をそのまま持ってきただけだもの。術後間もない膝なんて見たことないし。
という具合に、『経験を表現すること』は非定型的かつ創作技術的で、作家各々の拘りにより深く直結しているように思えて仕方ない。(各々のバランス感覚はさておき)
まあただ、ここに文句を言うともう戦争にしかならんよね。と思う。基本ノータッチでいい。
〆
自分は上記のように考えたら、割とこの題材についてはすっきりしました。
この記事を読んで『たしかに~~!』って思ってくれても嬉しいけど、ぶっちゃけ参考程度に留めていただいたほうがありがたいです。間違ってんなこいつと思ったら「バカやなw」と笑ってください。
それではまた会いましょう。
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