ネタバレ注意
この記事は、ガンダムシリーズのネタバレを含みます。
これから見る方には特にブラウザバックを推奨します。
これが若さか
機動戦士Zガンダム13話で主人公カミーユにより殴られたクワトロ(シャア)が、涙を流しながら放ったセリフだ。
本作屈指の名場面にして迷場面。そして迷言として語られる。たしかに10歳も歳下のカミーユに殴られて泣くシャア・アズナブルというだけで笑える。どんなに取り繕っても笑える。
だが、この”おかしさ”の構造はあまりにも深かった。深すぎるが故に、おかしい。そして、これは笑えるおかしいシーンにするのが正解にしかならないのだと、自分は考えている。
それを紐解いて説明するにはまず、シャア・アズナブルという人間の人生、その生き方について理解する必要がある。
復讐を誓った少年~青年期
彼は、ジオン共和国を建国したジオン・ズム・ダイクンの忘れ形見として産まれた。本名をキャスバル・レム・ダイクンという。
父であるダイクンの死後、デギン・ザビ(ザビ家)が政治の実権を握り、彼は妹のアルティシア(後のセイラ・マス)と共に地球に追いやられた。
シャアは自身を庇護してくれたジンバ・ラルから父親はザビ家に暗殺されたと言い聞かされて育った。
彼はザビ家を激しく憎むようになり、復讐を誓う。そして経歴を偽ってジオンの士官学校へ入学するのだった。
そこでザビ家の末弟であるガルマ・ザビと親しくなるものの、純粋で真っすぐな心根を持つガルマはシャアの復讐心など知る由もなかった。そんなガルマに対し、たぶん、シャアは時折毒気を抜かれることもあっただろう。
卒業後はデギンの長女であるキシリア・ザビの配下に就くこととなり、さらに紆余曲折を経て、三男ドズル・ザビ麾下の宇宙攻撃軍に入隊し、エースパイロットとして頭角を現していく。
彼はこうして力を付けていったが、そのすべてはザビ家への復讐のためであった。そして、その拘りが彼を歪みのある人間へと変貌させていってしまった。
なぜならシャアは人を愛することができた。
実妹のセイラ・マスに向けた家族愛。ガルマに向けていた友情。どれも本物だったはずだ。
なのに復讐のためにその本音を抑圧し、時には背を向けていたのだ。それは、愛が目的の足かせになっていたからに他ならない。もしも彼が愛を選んでいたならば。復讐を選ばずに、セイラの傍に優しい兄のまま居ただろう。美しく気高いガルマのために忠誠を誓い、復讐を捨てただろう。
なのに、シャアは復讐のために、自身の本音から、人の愛から目を背けなければいけない使命を自身に課してしまった。そして、その復讐の火を絶やすかもしれない、人の心を、愛を恐れるようになっていったのかもしれない。
そうなると、人に本音で接することが叶わない人間になっていくのは必然のように思える。だから、彼の仮面は素性を隠す仮面ではなく、自分の本音と他者の心を遠ざけるためのものなのだと、感じさせられた。彼の生活感の無さやミステリアス性は、カリスマ性として映る一方で、彼自身の人間への恐れが生み出した偶像だったのかもしれない。
その自分への嘘は、ガルマを謀殺したことにより自分自身への、生涯の呪いとして跳ね返っていくこととなる。
坊やだからさ
謀殺したガルマに向けて放った、シャアの悪役としての名言だが、劇場版『Zquuuuuux』を見たことにより、この時のシャアの心情をようやく確信させられた。
表向きは嘲笑の言葉だ。だが、ファーストでもZquuuuuuxでも、シャアは嗤えていない。どこか吐き捨てるように、酒を嗜む。そこにはいつもの泰然としたカリスマはいない。カリスマが宿るのはその言葉尻だけで、雰囲気に何か必死さを感じてしまう。
本来愛情深いシャアは、本当は泣いて今すぐガルマに詫びたかったはずだ。自分を呪いたかったはずだ。それが自然な感情だったのだろう。その本音を必死に押さえつけ、復讐者としての矜持を守らんとして出た言葉が「坊やだからさ」という錯乱めいた嘲笑の言葉なのだと思った。そして、その言葉がシャア・アズナブルという人間の生き様を決定づけたといっても過言ではない。
ガルマを殺したことにより、シャアは感情の出口を喪うことになった。役割を全うするべく自ら封じ、見失わねばいけなかった。この瞬間、シャアは明確に人として破綻したのだと推察する。
それでも心のどこかで愛情を、本当の気持ちの出口を探していた。もう嫌になっていた。だからシャアはララァという母を求めてしまったのだろうと推察する。
母になってくれたかもしれない人(キモい)
ララァ・スンは私の母になってくれるかもしれなかった女性だ!
『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』より
若干マザコン気質であるアムロさえ引き気味に困惑した、シャアの生涯最期のセリフである。
自分も初めて聴いた時は「キモいぞ、シャア・アズナブル!」とドン引きかましたのだが、よくよく考えれば考えるほど、シャアが如何に人として壊れてしまっていたかを実感して、笑えなくなってくる不思議なセリフだ。
ニュータイプの特性として、他者の心の機微に敏感になる、というのがある。ララァのニュータイプとしての資質は特別で、その察する力もおそらく強力だったのだろう。
シャアはガルマの死を経て壊れており、自己表現ができない。自分の愛し方も分からなくなっている。それでも愛を捨てたくない、愛されたいという願望があった。そこでララァに目を付けたのだろう。ララァなら、こんな自分の心すら察してくれる。分ってくれる。そう感じて、のめり込んでいった末路がニュータイプ至上的な思想だったのかもしれない。今思えば、シャアの理想はジオン・ズム・ダイクンとは別軸の、こうした自分本位な欲求の果てだったのではないかと思わされる。
ララァによりシャアは極限の”察してちゃん”として覚醒した可能性が高い。
シャアはそうした『愛を注いでくれる』存在としてララァを特別視し続け、喪い、半ば神格化した結果、自己愛をこじらせて中途半端で面倒くさい大人になっていったのかもと思う。プライドが高く自己肯定する材料が欲しいが、自分でそれがコントロールできなくなっていた。彼自身の出自やララァ・アムロとの出会いを通じて育ったニュータイプへの理念があり、立場もあるのに、エゥーゴではあたかも自身の決断としては表立って振舞わなくなった。嫌われたくない、下に見られたくない、そんな意志を感じるような言動から、カイから「卑怯者」呼ばわりされたのも当然かなと思える。
ザビ家への復讐を果たしたのち、「クワトロ」なんて名乗って、出自を半端に隠してエゥーゴでパイロットをしていたくせにブレックス准将と対等を思わせる言動からもそれを感じさせるし、カミーユに対して吐いた下記セリフはそうした彼の悪しきキモさが前面に押し出ていて良すぎる。(彼の気持ちを慮っていたとしてもキモいのが上手い)
クワトロ「シャア・アズナブルという人のことを知ってるかな?」
機動戦士ガンダムZ 第5話『父と子と…』
カリスマでありながら、最もみじめな内面を併せ持つ男。だからこそ「男は涙を見せぬもの」と言われ育った世代に特に刺さるキャラなのかもしれない。なお、女性にオギャりたいバブオジの先駆けと言われてもどこか納得してしまう
食らって当然だった『修正パンチ』
Zガンダムの主人公のカミーユは両親を反面教師とし、自他に誠実たろうと病的に拘る側面がある。ただ、10話途中までの彼はただ、感情の赴くままに言動を垂れ流すだけで、誠実さをはき違えた子供だった。その発露が第一話におけるジェリドを殴打した件であったり、修正してくるウォンに対して「暴力はいけない」などと口走るシーンに現れている。
場合に応じて子供であることをアピールしようとするカミーユだったが、ウォンの苛烈な修正とエマの「自分の都合で大人と子供を使い分けないで」という注意を経て、誠実であるということの認識を改めていく。こうしてある程度他者に対して腰を据えられる様になっていく兆候が見え始める。
そんな時に、クワトロはあろうことかカミーユの目の前で「自分の都合で立場を使い分けることに罪悪感の無い大人」の態度をとってしまうのだ。
十歳年下の部下という立場でありながら、カミーユは一歩も引かずに詰問。どっちなんだお前は、と問う。
ハヤトのカミーユへのフォローもあり、カリスマ的な態度に隠された中途半端な現実をむき出しにされていく。それがクワトロのプライドに着火してしまい、カッコつけながら意味不明なことを口走ってしまうのだった。
クワトロ「今の私は、クワトロ・バジーナ大尉だ。それ以上でもそれ以下でもない」
クワトロ以上クワトロ以下ってなんなんだ。
お前はいつから物の単位になったんだ。
多分もう、この時のクワトロは自分で何言ってるかわかってない説がある。声も震えそうで内心テンパってたと俺は考えている。そして、内心自分の情けなさを感じ取っていたのではないか。後ろめたさはあったのではないか。クワトロはバカなわけではないので。
ただ実際あまりにも情けない。ダサすぎる。こんな奴が大人面してカミーユに説教かましてたと思うと、なんか、誰だってムカつかないですかね?
当然、直前にエマに諭されたカミーユは心底腹を立てた。あたりまえである。
そんな大人、修正してやる!!!!!!!!!
修正を「気合を入れなおすこと」とカミーユはエマから教わっている。
態度だけはいっちょ前のカリスマ気取りで、芯がブレっブレで不誠実極まりないこのクワトロという大人を前にして、怒りが爆発するのは当然の帰結だっただろう。
自身の嫌な部分から目を背けずに、本気をぶつけてくるカミーユ。
この時きっと、クワトロの脳裏には走馬灯のように、悲しみとも嬉しさとも分からない感情が爆発していたのかもしれない。カミーユの純粋さと誠実さはきっと、かつての腹心の友────ガルマを思い起こさせる光があったはずだ。そして、友情に蓋をしたガルマの謀殺により、自分に嘘をつくことに慣れ、本音の在りかを見失い続けていた彼にとって、カミーユの姿はあまりにも眩しかったのではないか。
クワトロは直後に下記の名言を涙をこぼしながらつぶやくのだった。
これが若さか
『若さゆえの過ち』と対になる名言と言われているが、自分は『坊やだからさ』の対だと考えている。『若さゆえの過ち』は正直意味が分からない。意図したセリフなのか?
きっと心の中ではずっとガルマのことを後悔していたからこそ。本音に蓋をした狡猾さに生きてきたからこそ。純粋で誠実な衝動が理解できなくなっていたのだろう。カミーユは彼の中で一つの答えになったはずだ。自身の人生の苦しみを少しだけ和らげるものだったかもしれない。
この場面でのクワトロはあまりに情けない。これまでの流れも合わさって、どんなに取り繕ってもなんだか笑える。だが、そう描くほかない。それほどにクワトロという人物は自己矛盾を抱え、本音を隠し、道化の様なカリスマの仮面を未だ捨てられない情けない大人だった。
おかしく描く以外に、このクワトロのみじめさをうまく表現できる手段が、果たしてあるだろうか??
なお、クワトロは謝ることはなかった。自身のプライドを優先させてしまう。超、上から目線で。
クワトロ「人には恥ずかしさを感じる心があるということも……」
機動戦士ガンダムZ 第13話『シャトル発進』より
心を閉ざしてしまう、人生に染み付いた癖はどうしても抜けてくれない。それを感じさせる一言だ。不条理で残酷な、ガンダムシリーズらしさが光りながらも、クワトロのキャラクター性の深さを感じる名シーンと言える。
~fin~
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