中二病って何なんだろうね!

創作

とある企画がきっかけで考えた

匿名【🦇中二病企画🦇】~あの頃のお前は輝いていたぞ!!~

とーふさんに主催いただいた、上記、匿名の短編企画に参加しました。各々が考える中二病について、前後半1600文字ずつで表現せよ、という趣旨です。

私は実は言い出しっぺだったこともあり、ずーっと何書こうかなって考えてました。今回の作品で何を伝えよう。どう俺の考える中二病を受け取ってもらおうかな、と。

そのために、中二病の本質的な部分をまず自分なりに分析したんです。

この記事は、その分析結果の総括、そして、作品に込めたものについて書き留めておくためのものにします。

一般的な中二病の定義感について

中二病という言葉の定義について、Wikipedia先生にはこう記載があります。

中二病(ちゅうにびょう)とは、「(日本の教育制度における)中学2年生頃の思春期に見られる、背伸びしがちな言動」を自虐する語[1]。転じて、思春期にありがちな自己愛に満ちた空想や嗜好などを揶揄したネットスラング。派生語に高校2年生を指す「高二病」、大学2年生を指す「大二病」がある。

なお「病」という表現を含むが、実際に治療の必要とされる医学的な意味での病気、または精神疾患とは無関係である。

特にここでいう定義の本質を表している箇所はおそらく『思春期にありがちな自己愛に満ちた空想や嗜好などを揶揄したネットスラング。』でしょう。

中二病というのはやはり、わらわれるものです。現に私も笑ってきました。リアルな少年少女の笑える奇行(本人たちは至って真面目)がネットによって拡散され、中二病として定着し、いつしかキャラクターの属性となっていった時代の流れを私は知っている。

『初カキコ…ども…』や『エターナルフォースブリザード』なんかは特に有名で、ネットミーム化して行きましたね。娯楽作品の中でも『中二病でも恋がしたい!』では主要キャラが中二病患者。他作品でも『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』の材木座義輝や『この素晴らしい世界に祝福を!』のめぐみん等、キャラクターのエッセンスとして積極的に取り入れられている要素になっています。

この言葉が生まれたことによる後付けも含めれば、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公であるラスコーリニコフも中二病患者扱いされてるのをどっかで見たことがありますし、中二病は完全に私たちのお茶の間に浸透したキャラクター像と言っても過言ではないでしょう。

その反動ともいうべきか、こういう創作テンプレタイプの中二病患者というのは、もはや現実で見ることは珍しくなったようにも感じます。中二病患者こそ、人に100%嘲笑されると分かっていることをわざわざやらないと思いますからね……。理由はこの記事を読んでいけば、いずれ分るでしょう。

何が言いたいかというと、現実の中二病というのは、この定義感からある程度逸れた位置にあるとも言える、ジレンマを内包する不思議な場所に住所を構えている概念だと思うのです。

現に、中二病を属性としての病理的なものと捉えるか、精神としての病理的なものと捉えるかで、その方向性というのは全く別ものと化していく。企画の参加者で、この点で悩んだ人は多分私だけではないはず。

ほんと、この定義感の方向性で迷いましたね。自分の作品をどっちによせようかなと。もちろん、マーケティング的観点なら前者一択なんですけど、面白さだけを追い求めると途端に苦しくなる……。やっぱじぶんの書きたいものを書いて面白くしたいじゃないすか、書き手のわがままとしては。書きたいもの書いておもろいのが最強なんですわい。

そんなこんなで結局、自分の創作スタンスに素直に従うことにしました。私は血潮の通った人間を書きたい。書いた自分自身や読んだ誰かを救う物語を書きたい。そのためには、自分の血肉に近しいものを書かねばならない。創作テーマに対して限りなくニアリーイコールに近い別体験を想い出さねばならない。だとしたら、後者の『世代病理的なもの』を描く方向性一択になる、と考えたのです。これは、スタンス、経験則の問題であり、多分、本当に精神的にも属性的な中二病に羅漢していた方もいると思いますからね。こういう抽象概念で完全に二択化するってのは中々考えづらい。二択にすればとっつきやすくはあるんですけど、同時にナンセンスでもある。それは私の趣味じゃない。『僕の考えた最強の設定資料集』なんかは、物書きならだいぶ経験してるんじゃないかなって思いますし、それに人間はいつだって、我々の想像の斜め上を超えてくる。そう思っておいた方が良いですね。精神衛生的にも良い

ただ、本企画のように限られた短い文章で作品を創る際、方向性をきっちり定めねば空中分解してしまう問題がある。便宜上定めねばならない。決断を迫られます。

つまりこの企画における私の中二病の定義というのを、自分が納得いくまで誠実に掘り下げ、その本質に触れねばならないとも考え始めたのです。要するに、属性的概念を遡り再定義する必要がある、と。作品の目指す方向性をこう決定した方が適当であると。そう思いました。

中二病を再定義する

私が本企画で自分にとっての理想の掌編を書くには、『なぜ中二病が中二病たりえるか』を突き詰めねばならない。そのために、様々な中二病ロールモデルを収集する必要がありました。エンタメとして属性化してしまう以前の、擬態すらままならない等身大のひっどい中二病を。

羞恥心でそれを隠しておくのもまた中二病なんですけど、そういうバランス感覚に長けた人物は、私の考える再定義対象から外す決断をしています。すみませんが、健全の範囲内とさせていただきました。

『初カキコ…ども…』は明らかに等身大でしたね。鬼気迫る。ガチ以外の何なんですかあれは。

私の同級生にも擦れた人がいたな。属性的には高2病ですが、これもカウント。あんま中二病と変わんねえだろ。(ドイヒー)

あとは、嫁の同級生にいた「偽善者が……」が口癖の人もカウント。Youtubeでドンキで買った安物のパーティ用長髪ヅラ(赤)をヘドバンで乱しながら奏でるギターのエピソードは圧巻だった

その他、創作物や「やっぱキリトかなー」みたいなネタ等にも触れていきましたが、結果、ちょっとずつ中二病の共通項とも呼べる定義感が見えてきた気がしました。以下、箇条書きにまとめてます。

  • 皆、過去と未来の間にいる自身が何者かを定義したい
  • 内向的で他者に懐疑的であるため、常に寂寥感を抱えている
  • 孤独を分かり合える友人が欲しい、認めてほしいというジレンマがある

十代半ばというのは、振り返ることができるだけの過去が積み重なりつつ、自分の肉体が大人に近づき同じ目線になっていく実感を持つ時期です。それに気が付くだけの脳の成熟もあります。つまるところ上記の箇条書きポイント達は、誰にでも起こる可能性のあった実感であるはずなのが不思議なところで。

なのに、ここでモデルとして収集した中二病患者たちとは違い、素直に人と接して問題なく育つ人間は多い。これが中二病患者には面白くないはずですね。無個性で脳死めいた社会の象徴のように映る。嫁の同級生だった『偽善者くん』とかはいい例でしょうな。

この違いが生まれる理由はなんなのでしょうね?

救いの手を跳ねのけるか、信じて取るか────それは差し伸べられる当人にしか決められないはずで。しかし中二病患者は進んでその手を払いのけることが多いが、孤独感にさいなまれているんですよね。彼らは結局自己表現に身を投じているわけですから。だが、なぜそんな不器用で回りくどい選択を取るのでしょうね?友達作っちゃえばいいじゃない、それで解決、って普通は思うわけで。

でもそれは、大人の冷たい論理でしかないような気もして……。ここまで考えて、結局私は大人になってしまってるんだな、なんて悲しくなりましたよね。

だから、ここまで来たら、実体験からその残滓を探るほかないだろうと感じました。私も私をさらけ出さねば、記憶に埋もれて思い出せない実感があるでしょう。なんて。

原点回帰:私にとっての中二を遡る

私自身はジュール・ルナールの『にんじん』の家庭環境のような場所で育ちました。

中学二年生の頃。裕福だが、帰る家などないかのように感じていました。ヒステリックな母親による徹底管理の生活と横暴な父親の無関心により、今思うと自分で未来を考える思考が失われていました。いつかどう逃げ出すかをずっと考えていました。もう今は、嫌いな家族とは疎遠に暮らしています。結婚も黙って勝手にやりました。自分らしく生きていることを誇っています。

しかしそんな十代半ばのころでも、人に対して、素直に明るく接することができました。孤独にさいなまれる中二病患者のように、孤独の道を選んで生きてはこなかったです。自分って嫌な場所で育ったんだなと周りの指摘で気づいて、深刻に嫌な気持ちにはなりましたが。

自分はなぜ、中二病患者とはならなかったのか。理由はわかってます。当時の自分にはサッカークラブの仲間がいた。荒っぽく嫌な男子のノリって感じの奴らでしたけど、サッカーに対し真面目に向き合っていた私に優しく、存在を受け入れ、家族の影響で閉ざしかけていた心を必死にこじ開けてくれた人生の恩人たちだったんです。(私の両親の異常性に初めて言及してくれた人たちでもあった)

あと、掛け持ちしてた剣道部時代の師匠の存在も大きかった。後にも先にも、自分の努力と人間性をあそこまで認めてくれた人は、そうそういなかったです。

自暴自棄になりかけると、そういう愛すべき人たちの事が必ず脳裏によぎったんですよね。「あの人たちを悲しませていいの?」って。大崩れして自分の殻に閉じこもり、自己表現の欲求に狂うことがなかったのは、私が人に恵まれていたからに他ならないでしょう。

……ここまで想い出して、私は、このターニングポイントを描きたいな、書かなきゃだめだなと思いました。

孤独のままでは、人は終わりに突き進んでしまうものだ、と。

同時に『だが、なぜそんな不器用で回りくどい選択を取るのでしょうね?』という自分の問いへの答えが見えた気がしたんですよね。

中二病患者は人への信頼を信じていない。もしくは信頼構築方法を知らない。人と社会が嫌いだ。それでも誰かにとっての特別を諦めきれない。だから、大真面目に奇怪な言動を選んでしまうのだと。

ふと同時に、うずまきナルトが「だってばよ」って語尾を使う、その理由を想い出してしまいました。うずまきナルトがなぜ、強い訴求力を持っているキャラクターだったのか。なんとなく、そこも分かった気がしました。

補足:なぜ中二病患者は不幸設定、もしくはガチ不幸に寄るのか

ついでに不思議に感じたことなんですけど、これは秒で答えが出ました。

自分の人生のイチ格言として、トルストイの『アンナ・カレーニナ』の冒頭文を持ってるんですけど、これがだいぶ深く本質ついてるんじゃないかなと思いましてね。

幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである

不幸のバリエーションって豊かだと思います。

反面幸福の形って、割と普遍的でありながら繊細だと思います。大学を出て就職し、異性と付き合って結婚し、子供を持ち、休日は家族で車に乗って出掛けて……と書くだけで、人は「幸せだ」「リア充だ」って思うんですよね。ぼんやりと誰もが似たような幸せを知っている。

でも『大学を”借金まみれ”で出て”どこでもいいと思いブラック企業”に就職し、”親族内や社会でのステータスのために”異性と付き合って”趣味を捨てて”結婚し、”世間体のために仕方なく”子供を持ち、休日は”寝不足を押して風邪をひいていようとも”家族で車に乗って”必ず”出かけ”なければならない決まりが”』とか書いたら、一気に幸せの皮をかぶった機能不全家庭の爆誕なんですよね。割と小さく文章いじるだけで、不幸になれましたね。(ドイヒー)

だから不幸って、簡単に個性化できるんですよね。単純に中二病患者が不幸じみているのはそれが理由なんじゃないかな、なんて思いました。

中二病の再定義

つまり私にとって、中二病とは『人への信頼を信じていない。もしくは信頼構築方法を知らない。人と社会が嫌いだ。それでも誰かにとっての特別を諦めきれない。だから、大真面目に奇怪な言動を選んでしまう』人たちをさすのだと思いました。

もちろん中二病とはそれ自体が様々な概念を内包する言葉というのは理解しています。

あくまで、この企画にあたり自分で定めた中二病の基準です。これを軸に、作品作りに取り掛かりました。

以下、少しだけ提出作品の前後半について語ります。

提出作品『無題』について

無題 - 匿名【🦇中二病企画🦇】~あの頃のお前は輝いていたぞ!!~(とーふ) - カクヨム
解き放て!! 封印された魂を!!

↑作品ページ

先にいうと、半分くらい、主人公のモデルはZガンダムの『カミーユ・ビダン』でした。誠実さにとらわれた悲しき人間です。残りの半分は私自身です。

文字数の関係で書けませんでしたが、主人公の過ごした人生というのは『私の前述した家庭環境で育った上に誰の愛情も知ることなく育った』ものとしています。

主人公は人との信頼関係に疑心暗鬼となり、自己と他者への誠実さに狂っている。かれにとって、真理探究の果てに、孤独のうちに狂死したニーチェの生き様は眩しく映っています。ニーチェは『善悪の彼岸』で人々は善悪の二元論的価値観により、真の自己による判断手段を喪っていると説いています。主人公にとってそれは救いでした。ニーチェのおかげで幸福であろうと努力する普通の人々は”善悪の彼岸”に囚われた、哀れで情けない人間でしかなくなったのですから。彼岸にとらわれることなく死んだニーチェは、彼のG.O.A.Tであり理解者だったわけです。

彼はニーチェの『真の自己』を求めるべく、何者でもない存在であることを願った。ですが、ニーチェが狂ったようにそれは修羅の道。極めるには辛すぎる。だから彼は、人を信じて善悪の彼岸に片足を踏み込んだその瞬間に死にたいと思っていた。それが自分にとってできうる限りの幸福と信じてました。

そして彼は、自身の賛同者と出会う。この友人をAとしましょう。Aは主人公から見て最初普通な奴でした。でも、Aは普通の人生を歩んでいただけで、誰しも在り得る中二病の精神的下地はもちろん存在していた。Aは信じていた思いを裏切られ不安定になっていた時に主人公と出会い、幸せだった日常の一部に蓋をして厭世的な衝動に身を投じていきます。

中二病による孤独からの抜け道を見失なってしまう人間は、人の愛情そのものへの猜疑心に駆られているのではないかという私自身の想いを十分に込められたかなと思います。割と満足している前半部分です。

ただ、主人公が自分の置かれている状況に対し冷静すぎる。もう少し真に迫る当時の激情みたいなものを想い出せていれば、大人のにおいを消せたかな、と若干の後悔がありました。

提出作品『|想フ故ニ我アリ≪p, ξ, N(ξ)≫?』について

私は、ニーチェの『真の自己』をデカルトのいう『我思う故に我あり』の系譜に連なる自己存在論の一つだと思ってます。

例えれば、全体という自己を含めた集合があり、その一部である自己から見る世界を全体から引き算して、残るのが『真の自己』なのだという。そういうスタンスを昔の哲学者は皆取っている気がします。その引き算をウィトゲンシュタインは真理関数というものを用いて『p, ξ, N(ξ)』と表現していると、簡潔ではありますが考えています。

だけど、それって孤独な人間の独りよがり/孤独な考え方であるようにも思えていて。彼らに対し『結局自分の主観で引き算してるだけじゃないのそれって?』ってずっと考えてるんですよね。彼らの理論って、人とのかかわりから何となく疎遠になっている印象を受ける。感覚頼みの主観的な引き算は、多分、他人から見たらまた違った答えに見えることもあるんじゃないですかね。

だから、私は彼らの考え/哲学を孤独の象徴として描きたかったんです。その体現者が主人公であり、Aは気の迷いで主人公を信頼してしまった新興宗教の信徒みたいなもんです。

最後、Aは自身の手が象徴として、過去の記憶に結び付く現象を体験します。ですが、主人公にとってはそれが死の怯えから逃れたいがために伸ばした手以外の何物でもない。この瞬間、Aは自己存在は自分が思っている以上に関わり合いの中にある事を理解します。他人の状況を想像するという、大人への階段を一つ上ったわけです。ただ、もうすべてが遅かった。人だって突き詰めたら物ですから、壊れてしまえばもう取り返しなどつかない。特別な自己など幻想であったと。そういう意味を込めたラストでした。

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